ドラゴンズは、2026年(令和8年)に、球団創設90周年を迎えた。このコラムを書く筆者が物心つき、竜のファンとして歩み始めて60年余りの歳月が経つ。時代を20年ずつ大胆に区切って、愛しきドラゴンズの歴史を訪ねてみた。
第2回は1986年(昭和61年)から2005年(平成17年)、現役時代の"燃える男"星野仙一が2期11年にわたって"闘将"として監督をつとめ、優勝と共にその後のチームの礎を築いた時代だった。(敬称略)
選手に「覚悟しとけ!」
「覚悟しとけ!」という威勢のいい言葉と共に、ドラゴンズに青年監督が誕生したのは、1986年オフのことだった。星野仙一、当時39歳。ちなみに現在のチームで最年長の大島洋平は40歳なので、それより若かった。山内一弘監督が成績不振によりシーズン途中で休養、それを引き継いだ高木守道(※「高」は「はしごだか」)監督代行を受けての登場だった。
この「覚悟しとけ!」は、就任記者会見で「選手たちにひと言」と質問されて答えた言葉だったが、実は私たちファンに対しても発せられたのでもあったかもしれない。なぜなら監督就任後のチーム改革は、ファンも大いに驚くものだったからだ。
三冠王の落合を獲得
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屈辱の「10・8」決戦
星野は5年間、監督を務めた後、いったんユニホームを脱ぎ、高木に監督のバトンを渡す。高木は、1994年(平成6年)に長嶋茂雄が率いるジャイアンツと、同率で最終戦を戦う「10・8」決戦に臨んだが敗れた。
日本プロ野球の歴史には、しかと刻まれた記念すべきゲームだが、ドラゴンズファンにとっては悔しく、屈辱の記憶でしかない。ましてや、フリーエージェント(FA)制度によって移籍した落合が4番を打ち、エース・今中慎二から先制ホームランまで打ったのだから。高木は翌1996年シーズン途中に、監督を休養した。次のシーズンから、指揮を取ったのは再び星野だった。
再登板でまたもリーグ優勝
星野監督が自身2度目の胴上げで宙に舞ったのは、1999年(平成11年)だった。この年のドラゴンズは開幕から11連勝という、プロ野球タイ記録でスタートした。一時だけ、2位の阪神タイガースに差を縮められるも、シーズンを通して安定した力を見せての優勝だった。
その前には、本拠地がナゴヤ球場から、新しいナゴヤドーム(現・バンテリンドーム)へ移転するという歴史もあった。広いナゴヤドームへの戸惑いもあり、最初の年は最下位という辛酸を舐めたが、ここでも星野監督は、守って走れる選手をトレードで獲得して、ドラゴンズの野球を大きく"変身"させていた。プロデュース能力に長けたリーダーだった。
星野の人材発掘能力
星野のドラゴンズ監督2期目は、6年間で幕を下ろした。しかし、この2期目に獲得した選手たち、荒木雅博、川上憲伸、井端弘和、福留孝介、そして岩瀬仁紀らが、やがて来るドラゴンズの黄金時代を築いていく。
さらに、監督だった合わせて11年間にトレードやドラフトで獲得した、落合博満、立浪和義、与田剛、そして井上一樹は、後にドラゴンズの監督としてチームを率いた。その意味においても、星野仙一という人物が、ドラゴンズの球団史で果たした役割は本当に重要だったと言えよう。
星野は、2000年(平成12年)オフに監督を辞任し、直後にタイガースの監督に就任するという、竜党にとっては残念極まりない局面を招いた。しかし、その功績は讃えられるべきである。そして、星野が最初の監督就任直後に大型トレードで迎えた"三冠男"が、ドラゴンズの黄金時代を築くのも、まもなくのことだった。 【CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】
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