ドラゴンズファンです
※親会社は大嫌い😑
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三好大倫に戦力外通告 「びっくりしました。悔しい部分はあるが仕方ない」今季開幕スタメンも…
29日、三好大倫外野手(27)と来季の契約を結ばないことをナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」で通告した。三好は今季の開幕戦で「1番・中堅」として出場していた。
三好は香川・三本松高、JFE西日本をへて2021年ドラフト6位で入団。プロ1年目だった2021年は1軍出場がなかったが、2年目の2022年には自己最多の45試合に出場。8月20日のヤクルト戦(バンテリンドームナゴヤ)でプロ初本塁打を放つなど、打率2割1分8厘、1本塁打、2打点、6盗塁をマーク。2023年は30試合に出場した。
2024年は、春季キャンプ中に右肩を負傷した岡林に代わって開幕スタメンに抜てき。3月29日のヤクルト戦(神宮)に「1番・中堅」で出場した。しかし徐々に出番を減らすと、5月24日に2軍落ち。そのままシーズンを終えた。
昇竜館を訪れた三好は「(通告には)びっくりしました。正直、悔しい部分はあるが仕方ない。今年は開幕スタメンを取れた。がむしゃらに毎日やってきた」と心境を明かした。今後については「まだ考えていない。野球はやりたいと思っています」と話すにとどめた。
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秋季キャンプが1日、ナゴヤ球場で始まった。秋季練習を行っていた柳裕也投手や細川成也外野手らに、秋季教育リーグ「みやざきフェニックス・リーグ」に参加していた石川昂弥内野手らが加わった。来季からコーチ陣に加わる松中信彦打撃コーチら6人も練習を見守った。
午前10時の練習開始前には、井上新監督が訓示。「名古屋組とまた強化組として沖縄に向かう組と放牧という形でベテランのピッチャー陣、野手陣、できてない人もいるけど、それは関係ないよ。ここからほんとにみんな競争してやっていく。これが俺の中での唯一の望み。競争してほしい」と呼びかけた。
さらに、10月31日にワールドシリーズを制した米大リーグ・ドジャースを例に出し「昨日、ドジャースが世界一になって歓喜の渦の中シャンパンファイトしていたよね。ああいったものをいつかできると思い描いている。その一員となって、その力になることを描きながら練習しよう。練習しかない。その中で自分がダメだなってへこたれたときに尻をたたくコーチ陣だから。どんどん利用してほしい」と語った。
第3クール初日の9日からは一部選手が沖縄・北谷に拠点を移し、練習する
🐉秋季キャンプ初日
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根尾昂投手が、プロ入り以来6年間背負ってきた背番号7を変更することが分かった。現役時代に投手から野手に転向した井上一樹新監督は、背番号99に変更した後、99年にレギュラー定着し、優勝に貢献したという成功例がある。
井上監督は鹿児島商高から90年に投手として入団。当初は背番号38をつけたが、投手としては大成せず93年途中に野手に転向。96年に背番号を99に変更すると、98年には1軍に定着。翌99年にはピンクのリストバンドをトレードマークに、開幕から21試合連続安打を放ち、チームも開幕11連勝の勢いのままリーグ優勝。自身は打率2割9分6厘で初の規定打席に到達した。その後、落合博満監督が就任した04年には背番号9に変更したが、黄金時代の貴重な戦力として活躍を続けた。
22年途中に野手から投手に転向した根尾は逆コースになるが、井上監督は「投手1本で頑張っていくのなら、ピッチャーらしい番号に変えてあげた方がいいかな」と変更の理由を語った。
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35歳。多くの社会人にとって「若手」とは言い難く、かといって「ベテラン」とも言えない。仕事でもプライベートでもさまざまな問題を抱えやすいこの年齢。ではアスリートの世界ではどうだろうか。本特集はそんな30代半ばにスポットを当てた。現在35歳で現役プロ野球選手、ドラゴンズの中田翔に話を聞いた。世間から「ジャイアン」と思われている彼の胸の内は……。 (前後編の前編)
【写真】真剣な表情でインタビューに応える中田翔選手
アスリートの世界では35歳よりも若くして引退する選手が多くいる。下からどんどん突き上げてくる若手選手の脅威や自身の体力の低下など、ひとつのターニングポイントとなる年齢だからかもしれない。
そんななか、35歳にして今も現役プロ野球選手、ドラゴンズ・中田翔の現在地について話を聞いた。金髪丸刈りヘアや184cmの筋肉質な体型。「大将」や「ジャイアン」と呼ばれる男は今何を思っているのか。
「昔は牛丼特盛5~6杯、今は並で十分」
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>>118 by🐟
何かとハラスメントが問われる時代に「“優しく話す”ようにはしてます(笑)」
そんな中田は平成元年生まれ。昭和生まれの指導者や先輩に野球を教えられ、平成生まれの仲間たちとともに練習し、今はZ世代の若手と同じグラウンドに立っている。中田自身は世代ごとの価値観の違いに戸惑うことはあったのだろうか。
「すごくジェネレーションギャップを感じる場面は多々ありますね。基本的に若い選手と世間話してても話が合わない…。俺が知らないことももちろん多いんですけどね。
それにパワハラとかのハラスメントの種類もすごいあるじゃないですか。僕が若い頃とは全然違うことも多くて。たとえば、“練習中に水を飲むな”とかそういうの当たり前にあったじゃないですか。でも、今はそれは違うと思うし。
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>>119 「若い頃は本当にヤンチャだった(笑)」
そんな中田は自身のYouTubeで頭を丸刈りにして登場してきたことがある。その際、気合いを入れるためと話していたが、当然自身が高校球児だった時代は丸刈り頭が当たり前だった。
スポーツ進学校の部活のほとんどが丸刈りだったが、時代は令和。今は「脱・丸刈り」という風潮も少なくない。そんなスポーツ文化についてはどう思うのだろうか。
「今は今でいいと思うんだけど、僕の本当に個人の意見では、スポーツの世界のしきたりみたいなものは、残していかなければいけないものは残していくべきだし、野球界でも厳しくやっていくことはやっていったほうがいいんじゃないかなと思う。
僕らは先輩にバチバチしごかれてきた世代なんでね、必ずしもそれが大事とは言わないけれど、いろんな先輩方が言ってくれたことが、今の自分に活きてるときはやっぱりある。
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白井文吾・中日元オーナー死去、96歳 落合監督を招聘し黄金期、在任は球団史上最長の20年間
[引用][返信][編集][削除]5日、来季からの首脳陣に新たに小池正晃コーチが就任すると発表した。打撃部門を担当する。今季までDeNAで1軍外野守備コーチを務め、4日に退団を発表していた。
小池コーチは、横浜高で松坂大輔らとチームメートで春夏連覇を達成し、1999年ドラフト6位で横浜(現DeNA)に入団。2008年にトレードで🐉に移籍し、12年からFAで古巣のDeNAに復帰。13年に引退した後は打撃コーチ、外野守備走塁コーチなどを歴任し、今季は外野守備コーチとして日本一に貢献した。
来季シーズンのコーチングスタッフの発表は小池コーチをもって最後となる。新しく発表されたコーチは以下の通り。
松中信彦打撃担当コーチ
飯山裕志野手総合コーチ
小山伸一郎投手コーチ
平田良介外野守備コーチ
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8日、秋季沖縄キャンプのメンバー22選手が中部国際空港を飛び立った。沖縄県北谷町のアグレスタジアム北谷で20日まで鍛錬を積む。キャンプ期間を通したテーマを、ナインが一皮むける「むき栗キャンプ」と命名していた井上一樹監督(53)。最強化メンバーとの日々を「苦々フェイス見たいキャンプ」と名付けた。
機内の井上監督はもん絶するナインの表情をイメージしていた。12泊13日のキャンプが始まる。
「もう勘弁してください、という苦々しい顔をいっぱい見たいね。『苦々フェイス見たいキャンプ』。暑いということもあって、汗の量も増えて疲労度も高まると思う。そこで、もうひと頑張りしてもらいたいね」
選んだ22選手の人選には、指揮官によるコーチ陣への信頼が表れている。「コーチが話し合って選んだ最強化選手なんです。選ばせました。ボクも『この選手は行かないの?』と思った選手もいた。22人が全てではありません」。来季1軍での活躍を期待する面々とはいえ、来春になれば競争は横一線。競争に勝ち抜く力強さを身に付けさせたい。
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中田翔内野手が9日、ナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」で契約更改交渉に臨み、現状維持の年俸3億円でサインした。
昨オフにオプトアウト権を行使して巨人との契約を破棄し、🐉に入団。3月29日のヤクルト戦(神宮)で移籍後初本塁打を放つなど、開幕から主軸打ち、チームを支えた。しかし、5月に右太ももを痛めて登録を抹消され、以降は度重なる腰痛に苦しむなど、62試合の出場で打率2割1分7厘、4本塁打、21打点だった。
「情けない1年になってしまいましたし、最初からけがに気を付けてと言っていましたが、その中で体を作り直さなければいけないと改めて思いましたし、純粋に自分の体の弱さも再確認できた。ファンのみなさまに申し訳ない」と話した。
来季から井上新監督が就任し、チームは新たな体制となる。中田は、「ラストチャンスだと思うので、後悔なく全うしたいですし、その先のことは神様が決めることだと思うので、自分ができる範囲で全力でやった中で、最終的にチームとして笑い合って終われたらそんな最高なことはない。そこを目指して、しっかりと体づくり、1年間通して戦い抜くことを目標にやっていきたいです」と力を込めた。(金額は推定)
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>>124
球団側と、自身の思いが一致した。「チームとして優勝を狙っていきたいという気持ち、強いと思うので、僕もその話を聞いて、優勝を目指してやっていくという話をしました」。
不完全燃焼に終わった移籍初年度だった。得点力強化を期待されて加入したが、5月15日の阪神戦(バンテリンD)で左足首に自打球を当て、翌日に出場選手登録を抹消されると、再登録後の6月26日には腰の違和感で再び登録抹消。3度の抹消を経験し、8月8日DeNA戦(バンテリンドーム)が昨季最後の出場となった。
移籍初年度は62試合の出場で打率.217、4本塁打、21打点。期待通りの成績を残すことはできなかった。「情けない1年になってしまった。ケガに気をつけて、と言っていたのに、いちから体を作り直さないといけないと思うし、自分の体の弱さを再認識したし、申し訳ないし、本当に悔しい1年になってしまった」と唇をかみしめる。
井上一樹新監督については「ファームでいろいろ話をさせてもらったが、選手に対する熱量を持って接してくれる。話す場を設けてくださる方なので、しっかり受け入れてくれる方、個人的にはすごくいい方だなと思います」と言う。
2年契約の2年目。勝負の1年に向け「ラストチャンスなので。後悔なく、まっとうしたい。先のことは神様が決めること。自分ができる範囲で、チームとして笑いあって終われたら。そこを目指して、1年間戦い抜く」と力強く決意表明した。
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10日秋季キャンプLIVE
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国内FA権を持っている高橋周平内野手(30)が13日の宣言期間終了を翌日に控えた12日、来季も竜のユニホームを着てプレーすることを決めた。球団からは複数年契約の提示を受けている。
今季は大逆転で開幕スタメンを奪った背番号3が名古屋でのプレーを選んだ。「居場所? ないっしょ」とスタートし、2軍読谷キャンプ、オープン戦で結果を残して、3月29日の開幕戦・ヤクルト戦(神宮)で先発出場。初回にチーム初得点の適時二塁打を放った際に浴びた竜党からの大歓声は、生涯忘れられない一ページとして胸に刻まれている。
右ふくらはぎ痛のため1軍の戦列を一時離脱したが、復帰戦となった6月13日の日本ハム戦(エスコン)では初打席だった初回に右翼フェンス越える先制ソロ。”ドラゴンズに高橋周あり”と強く印象づけた。成績は計60試合に出場して打率2割6分、2本塁打、16打点、得点圏打率3割1分8厘。独自に構えの位置を高くした3年契約の3年目は初めて打撃スタイルを貫いたシーズンでもあった。
来季、出場機会を奪いにいく立場というのは百も承知。二塁に挑戦している福永は規定打席に立ったことがなく、石川昂は左手首痛で秋季沖縄キャンプを満足に送れていない。チームは選手層の薄さが課題だったが、背番号3の残留で起用法のバリエーションが増えることは間違いない。そんな男を開幕1軍へ調整させたのは当時2軍監督だった井上監督。来季14年目を迎える背番号3、高橋周の心は名古屋のファンとともにある。
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セ・パ両リーグの守備のスペシャリストを表彰する「第53回 三井ゴールデン・グラブ賞」の受賞者が12日、発表され、岡林勇希外野手が選ばれた。3年連続3度目の受賞となった。
今季は、右肩痛で開幕を出遅れたが、俊足を生かした広い守備範囲は健在。右肩を痛めながらも、リーグ最多の6補殺と強肩を光らせ、昨季は6だった失策も堅実な守備に磨きをかけて、233度の守備機会で無失策をマークした。123試合に出場し、中堅手で80試合、右翼手で23試合に先発起用された高卒5年目が190票を集めた。
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岡林勇希外野手(22)が打撃フォーム固めの秋を過ごしている。今季の前半戦、打撃不振に苦しんだ背番号1は「この1年を無駄にせずに来年につなげたい」とコメント。今季の後半戦から取り入れた足踏みするように体重移動させる”ダブルステップ”の完成度を高めていく。沖縄・北谷での秋季キャンプ第2クール最終日となった15日はアグレドーム北谷で打ち込んだ。
同じ轍(てつ)を踏むわけにはいかない。「今季の成績は悪かったですけど、今年の失敗を無駄にしないで生かすためにも、どう来年につなげていけるかを考えてやっていきたい」。岡林は言葉に力を込めた。
今季は前半戦につまずいた。春季キャンプ中に右肩を負傷。実戦復帰した直後に1軍に昇格したが、打撃で苦しんだ。前半戦終了時点で打率は1割8分9厘。本来の姿とは程遠かった。
復調につながったのは打撃フォームの見直し。肩幅よりも両足を開いて重心を下げた構えから、右足を上げる前に1度右足に体重を乗せて右足を上げる形に変えた。体重を乗せた際は、体もやや投手寄りに動く。左足のかかとは浮き、まるで打席で足踏みしているようだ。体重が左足にしっかりと乗せられるようになると、岡林らしいヒットが増え始めた。「後半戦は打てるようになった」の言葉どおり打率は3割3分をマークした。
チーム成績低迷の責任を取り、今シーズン限りで退任することを発表した立浪和義監督。元プロ野球選手で野球解説者の江本孟紀氏は「立浪監督が星野さんから学んでほしかった点が一つある」と話す。成績低迷の1つの要因とも言われる、立浪監督のマネジメント上での“失敗”とは――。
星野さんがドラゴンズで優勝できた理由
立浪監督がドラゴンズに入団したのは、星野仙一さんの監督1年目が終わった1987年秋。たしかに星野さんのことを「尊敬している」という話はしていたし、「あの厳しさがあったからこそ、プロで生きていくための土台ができた」ということも話していたが、一方、「星野さんのやり方に固執してしまうと、今の時代には合わない」とも感じていたはずだ。
星野さんの采配は至ってオーソドックス。大金をはたいて大物選手を獲得し、彼らが存分に力を発揮して活躍した年だけ優勝するというのが、星野さんの戦い方だった。それゆえに、戦略や知恵を絞って勝っていくというスタイルではなかった。
たとえば1988年にセ・リーグ優勝した際には、前年の87年に落合博満、88年には西武から来た小野和幸が活躍。1999年に11年ぶりのリーグ優勝を果たしたときには、96年に韓国から宣銅烈、97年は李鐘範、99年はサムソン・リー、FAで当時のダイエー(現ソフトバンク)から武田一浩と、韓国勢とFAで実力選手を獲ったことが大きかった。
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>>131 監督の右腕となるヘッドコーチは、友達じゃないほうがいい
立浪監督が星野さんから学んでほしかった点が一つある。それは、「島野育夫さんをヘッドコーチに呼んだこと」だ。
島野さんは作新学院、社会人の明電舎を経て1963年に🐉へ入団。その後1968年に南海に移籍していたのだが、私は1971年に南海に移籍して以降、仲良くさせていただいた。1975年オフの江夏豊とのトレードでは共に阪神に移った。私より4学年上ながら、「シマちゃん」「エモ」と気さくに呼び合える間柄だった。
島野さんは引退後の4年間は阪神で指導者として過ごし、山内さんが監督だった1986年に🐉の一軍外野守備・走塁コーチに就任したが、島野さんがドラゴンズ時代に一緒にプレーをしていた千原陽三郎さんから、
「星野は将来監督になる人材だ。そのときはお前さんが助けてやれ」
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